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筑豊炭田について

1.筑豊炭田の位置と範囲

昭和51年 九州筑豊貝島炭鉱の蒸気機関車
筑豊炭田は、福岡県の北九州市、中間市、直方市、飯塚市、田川市、山田市と遠賀郡、鞍手郡、嘉穂郡および田川郡の6市4郡にまたがる日本でも主要な石炭の産地でした。

その範囲は、遠賀川、嘉麻川、穂波川、彦山川及び犬鳴川の流域に広がり、東は福智山から香春岳に連なる山脈に、西は孔大寺及び三郡山脈、南は熊ヶ畑山を構成する花崗岩に限られ、北は響灘に面し北北西より南南東にわたり延長約47km、東西の幅は約12kmから28kmにも達し、面積は約787平方kmを占めている。

2.地形および地質

筑豊炭田は、中央をほぼ南北に走る金国、船尾山脈および六ヶ岳によって東西に分かれている。東区域は遠賀川下流および彦山川沿い、西区域は遠賀川上流、嘉麻川および穂波川沿い、炭田の北西部は西区域で最も高い地勢にある。
そして、東、西、南の三方を囲む山体は中生層変質岩または、花崗岩、閃緑岩等よりなっている。

炭層を狭有する地層は、古第三層の砂岩、頁岩および礫岩の累層よりなり、中生層および、それ以前の岩盤の凹地に堆積し、その後、地殻変動が起こっている。表面は第四紀層がおおっている。地層の走向は、北北西より南南東に走り、傾斜は大体、東に15度から20度傾いている。

嘉穂郡および、田川郡の南部では火山岩が石炭層を貫いて炭質を変え、せん石や無煙炭になっている。

3.筑豊炭田の地層と炭層

地層は、古第三層で上部から芦屋層群、大辻層群および、直方層群となっており、この中で石炭がある地層は大辻層群と直方層群となっている。

4.筑豊炭田のはじまり

貝島炭鉱の蒸気機関車
石炭の発見は1469年(文明元年)に福岡県の三池郡稲荷山にて「燃える石」としてはじめて発見されたと伝えられているが、筑豊炭田のはじまりは、それより10年後の1478年(文明10年)に五郎太夫という人が遠賀郡埴生村で「燃える石」を発見したのがはじまりといわれている。

このように、石炭の発見は百姓やきこりが山野でたき火をしていて、黒い石が燃えていることによって発見したものだった。したがって、五郎太夫が埴生村で発見したころには、筑豊の各地でも発見されて、農民たちが家庭用燃料に使用していたと思われる。しかし、あまりに悪臭がするので嫌われていた様子もある。

直方市史によれば、「1478年、香月村の金剛山にて黒石を掘り出し薪とす」とある。
その後、しばらく石炭についての記録は絶えているが、筑豊地区で炭鉱があった所では、地表に近い石炭を農民たちは必要に応じて掘り出しては、燃料に使っていたことが想像される。

1692年(元禄5年)に、オランダ人の日記に木屋瀬にて村民が石炭を焚いていたことが記されてる。1703年(元禄16年)に書かれた筑前風土記には「焼石、遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像郡の所々の山野にこれあり、遠賀と鞍手殊のほか多し、そのころ糟屋郡の山にても掘る」と記されている。従って、このころには筑豊炭田では、石炭なまいし(焚石)を掘り、「石がら」にして盛んに利用し、1700年の中期に至っては、四国や中国の塩田や福岡方面にも船で送られていたことが明らかにされてる。

5.福岡藩による筑豊炭田の開発

九州筑豊炭鉱の蒸気機関車
福岡藩では、1700年のはじめころから遠賀、鞍手、嘉麻、穂波の4郡における石炭の生産状況を調べて、その対策をたてている。

石炭仕組、焚石帳場を各地に設け、焚石帳場には帳場を支配する山元を置き、その元締めに山元頭取を置き、その上役に山元総代を任命して、その地方の庄屋、大庄屋の中から山元見ヵ締め役を選んで石炭の採掘、輸送、販売等に当たらせ、その監督には焚石会所および郡役所の役人が当たっていた。石炭採掘には、その地方の農民が農業の片手間で働いていたようだ。また、旅人と称する渡り坑夫たちがおり、これらの坑夫たちは熟練者として扱われ、石炭を掘るものを「堀り子」と呼んでいた。

石炭の輸送は、その殆どが遠賀川を利用し、川艜(かわひらた)、あるいは五平太船と呼ばれる石炭船で芦屋や若松に運び、ここで大型の船に積み替えて福岡や中国、四国地方の塩田に送り、また大阪にまで販路を広げていった。

当時の石炭の生産量は資料が不足していてよく分からないが、1837年(天保8年)の3月から12月までの売上高としての記録に次のようなものがある。
遠賀、鞍手で32,172トン、嘉麻、穂波で8,249トン福岡藩による筑豊炭田の石炭採掘は、このようにして1874年(明治7年)まで続けられた。その当時、石炭が掘られていたところがそのまま現在の炭鉱所在地となって採掘が続けられた。

6.明治以降の筑豊炭田

昭和51年 九州筑豊貝島炭鉱の蒸気機関車
明治2年に政府は鉱山を解放することになり、筑豊炭田も福岡藩の手から漸次一般地方人に移っていった。明治5年には鉱山心得書が公布され、明治6年に日本坑法が施行されて、政府も炭鉱の調査、開発に乗り出した。

明治に入ってから筑豊炭田の開発は急速に伸び、その生産は全国石炭の60%以上をこの炭田から掘り出したこともあった。
出炭量の年間最高は昭和15年で、炭鉱数では昭和27年末で全国949炭鉱、九州では昭和28年度の540鉱、筑豊では昭和26年度の265鉱が最も多かったが、それが昭和48年12月では全国40鉱、九州12鉱、筑豊では坑内採掘の炭鉱は0になった。
埋蔵炭量を見てみると、昭和31年の調査で全国87億9千5百万トン、九州は34億6千1百万トン、筑豊は17億9千万トンとなっている。
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